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第28回 写経の会の法話

こんにちは、こちらは慈悲の心と人の縁を、千葉市から伝え広めるお寺 日蓮宗 本円寺のブログです。
今回は第28回 写経の会にてお配りした教箋と、お話しした法話についてお書きします。

シ ュ リ ハ ン ド ク の お 話 し

― 塵を払い垢を除かん ―

お釈迦様のお弟子で周利槃陀伽(シュリハンドク)という方がおりました。
シュリハンドクは、たいへん物覚えが悪い人でありました。
悪いどころか、自分の名前も書けない。
名前を呼ばれても周りの人から言われて自分のことだとやっとわかるほどです。
名前を聞かれても答えることが出来ないので、いつも背中に自分の名前を書いたものをぶら下げておりました。
お釈迦様の教えを聞いても理解できすにすぐに忘れてしまいます。
それでも、悟りを求める心は人一倍ありました。教えがわからなくても、お釈迦様の話をぼんやりと聞いているだけで、彼はいつも幸せでした。

シュリハンドクは聡明な兄に誘われてお釈迦様の弟子となったのですが、兄と違って彼は一つの句さえも覚えることが出来ませんでした。
修行の作法や方法も、もちろん覚える事が出来ませんでした。
他の弟子達とまざり何年も修行を続けておりましたが、後から入ってきた後輩弟子たちにもからかわれてばかりです。
彼は自分の愚かさに絶望し、ついにお釈迦様のもとを去ろうとしました。
しかし、お釈迦様の「自らの愚を知る者は真の知恵者である」という言葉を聞いて思いとどまりました。

思いとどまったはいいものの、彼にはやはりどの修行も無理でした。
そこで、お釈迦様は一本の箒を与え「塵を払い、垢を除かん」と唱えさせ、この言葉を唱えながら常に精舎を掃除させるよう教えました。
シュリハンドクはその言葉を忘れないように書きとめ、それを見ながら、唱えながら、一心に掃除をしました。

それからどれくらいの月日が経ったのでしょう。シュリハンドクはついにその句を暗記することが出来たので、とても喜んでおりました。
掃除をしながら大好きなお釈迦様に会うと「どうでしょうか、きれいになったでしょうか」と嬉しそうに尋ねるのですが、
その度にお釈迦様は「もう少しですね」と言いました。
どれだけ隅から隅まできれいにしても「もう少しですね」言われます。
シュリハンドクはそれでも喜んで黙々と掃除を続けました。

ある時、精舎の周りで子どもたちが遊んでいて、せっかくきれいに掃除をした所を汚してしまいました。
シュリハンドクは思わず箒を振り上げ怒鳴りました。「こら、せっかく掃除をしたのにどうして汚すんだ」

その瞬間、彼はハッとしました。本当に汚れている所に気がついたのです。
汚れているのはその場所ではなく、怒りの心をもった自分の心なのだと。

それ以来、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついにお釈迦様の教えを理解して、阿羅漢果の悟りを得ることが出来たのです。
お釈迦様はシュリハンドクが一生懸命に掃除をしている姿を、いつも手を合わせて拝んだと言います。

私達は掃除をする時に「どうせまた汚れるから」「これくらいでいいだろう」などと思いながら手を抜くことがありますね。
シュリハンドクのしてきた修行は掃除をし続けることでした。
掃除をしても必ず塵や垢で汚れてしまう。だからこそ掃除をし続ける。それは心においても同じことです。
普段の生活において、私たちも心にたまっていく悪い心の塵や垢を、掃除し続けるのが大切なのです。

シュリハンドクの話は、私達の「目先の浅知恵」は悟りを得るためには逆に妨げになるということも示しているのです。

平成二十七年十二月 写経の会(第二十八回目) 法 話

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