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第19回 写経の会の法話

こんにちは、こちらは慈悲の心と人の縁を、千葉市から伝え広めるお寺 日蓮宗 本円寺のブログです。
今回は第19回 写経の会にてお配りした教箋と、お話しした内容についてお書きします。

蓮 華 の 教 え

― 濁世のなかで生きる ―

その昔、お釈迦様は街を歩いているとき、弟子の阿難に道端に落ちている魚の鱗が付いた縄を拾わせました。
またしばらく歩くと、お釈迦様は縄を拾った手の臭いを嗅ぐように言い、「どんな匂いがしますか。」と問いました。
阿難は「魚臭いです」と不思議そうに、また正直に答えましたがお釈迦様は続けてこう言いました。
「私たちは不信や悪、悩み苦しみの種が充満する中で暮らしており、できればそれらを避けて生きたいと皆考えておりますが、それは可能でしょうか。
今阿難は縄を拾ったことで、手が魚の臭いに染まってしまいました。この世の中も同じで、私達は残念ながら、
様々な悪や悩み苦しみと関わる中でしか、生きていくことができません。そのとき、心しなければ阿難の手と同様に、
自らの手や心までもがそうしたものに染まってしまうのですよ。」と。
また別の時、お釈迦様と、弟子達が、沼のほとりで休息されておりました。
お釈迦様はその沼を指差してこう言いました。
「あの沼を見てください。沼には美しい蓮の花が咲いていますね。あるものは水の上に、あるものは水の中に咲いております。
しかし水の下は泥沼で汚れており、決して綺麗なものだとは言えません。諸々の衆生よ、お前達の肉体も、あの蓮の花と同じことが言えましょう。
眼を見てみなさい。疲れたときや眼病にかかれば目糞が出るでしょう。鼻糞、耳糞、歯糞、汗、大便、小便。なにひとつ綺麗なものは身体から出ません
私たちの身体は、正に泥沼と同じです。この泥沼のような肉体に執着を持って苦しみを造っております。しかし、この肉体が泥沼のように汚れていても、
心が「法」を悟って、その法にかなった生活をしたならば、あの蓮の花のように美しく、大自然のなかに調和され、心の中は安らいで生活ができるのですよ。」と。

蓮の花は泥沼に育ちながら、その花本来が持つ美しい色のまま咲きます。泥の汚れがつくことはありません。
それでいて、泥との密接な関係を切ることはできないし、逃れることもできません。
人間もこの花のようにあるべきと考えられたお釈迦様は「蓮の花が泥水に染まることなく咲き誇るように、
人間も世間に在ってその汚れに染まることのない生き方を目指しましょう」と『法華経』に説かれました。
そこから、蓮の花が仏教の象徴となりました。「南無妙法蓮華経」のお題目の中にある『蓮華』も、同じ意味があります。

私達がよく目にする花は、花が散ってから実を結びます。ところが蓮の花は、花ができたとき既に花の中に実をつけている、とても珍しい植物です。
これは仏に成る種を私たちが自分自身の中にすでに持っている、そのことを表しているのです。
蓮の花は、いわば仏教を象徴する花ということです。

平成二十七年三月 写経の会(第十九回目) 法 話

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