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「言葉」と「会話のキャッチボール」

こんにちは、こちらは慈悲の心と人の縁を、千葉市から伝え広めるお寺 日蓮宗 本円寺のブログです。

今日は「言葉」を「会話のキャッチボール」に例えてお話しいたします。

世の中にはたくさんの言葉、文字で溢れかえっております。
私たちにとってそれは欠かせない大切なものです。

よく会話をキャッチボールに例える事があります。
キャッチボールとはボールを相手に投げ、そして相手が返してくる。ただそれだけ。
とてもシンプルで単純なものです。
子供からお年寄りまで誰もが出来、そしてボールさえあれば誰とでも、いつでも出来るものです。

私たちはふだん自然に言葉を発しますが、その言葉は相手に届いているでしょうか。
相手が受け止められない強い口調で話したり、変化球の様にどう答えていいか解らない話し方をすることがありませんか。
自分の気持ちを伝えたいのであれば、相手が受け取りやすい言葉を投げかけてあげる。
それが大切です。
相手の言葉をちゃんと受け取る様にすることも、同じように大切ですね。

言葉というものはいつまでも無くなりません。
その証拠にお釈迦様が説かれた言葉(経典)、歴史上の人物の言葉も今も生き生きとして残っておりますね。
身近なところでも、昔言われたことを今になって「あの時言ってた言葉はこういう事だったんだなー」
と思う事がありませんでしょうか。
自分が同じ立場になった時、同じ様な年齢になった時、初めて気付くことがあります。
ハッとして言葉を思い出したり、しみじみとその人の生き方を心の中でなぞってみたり。
それは途中で終わらしてしまった言葉のキャッチボールが再開した瞬間です。
相手が投げてくれた言葉を取りこぼしたけども、今になってやっとボールを拾うことができたのです。
たとえその時その人がこの世にいなくても、むこうの世界から「やっと言葉とその本心を受け取ってくれた」
きっとそう思って喜んでくれるに違いありませんよ。

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私はよく法話の中で、故人の残された言葉や生き方を忘れないで下さいと言います。
記憶の中の言葉、表情、姿勢。今は解らなくてもいつか解る時がくるから、それまで大切にしてくださいと言います。
いつか、その人の本当の心をしっかりと受け取って欲しいからです。
その言葉を受け止めることができたら今度は自分がボールを投げる順番がきます。
それは、その言葉を大切にし、そして自分の生きる糧にすることです。
そうすることによって、相手がそこにいなくても会話は成り立つのです。
忙しい日々の中で、誰かが言った言葉を思い出すことが出来れば幸せですね。

仏教でいうところの「諸法無我」というのはこういうことも含まれます。
全てのものは自分のものではないという意味なのですが、言葉もそうです。
例えば大樹の葉はやはり大樹のものの様ではありますが、
季節がめぐり、その葉が落ちるとそれは大樹のものではありません。
虫達のご飯や寝床になったり、朽ち溶けては大樹の陰に守られている小さな草花の大切な栄養にもなります。
自分の身から出たものは自分のもののようであり、自分のものではないのです。

大切な言葉を忘れずにいれば、いつかその本当の心を受け止められる日が来る、
大切な人といつでも会話が出来る、そう思うと色々と気持ちが楽になりますね。